【追悼】長嶋茂雄さん、6月3日永眠──野球という人生を全うされた89年
2025年6月3日、昭和・平成・令和を跨いで野球界に偉大な足跡を残した名選手・名監督、長嶋茂雄さんが89歳で永眠されました。国民の誰もがその名を知り、誰もが一度は憧れを抱いた「ミスタープロ野球」──その存在は、野球界にとどまらず、日本のスポーツ文化そのものの象徴でした。
長嶋さんの野球人生は、輝かしい記録と記憶に彩られています。私は観ておりませんが、立教大学での華々しい活躍、そして読売巨人軍への入団。ルーキーイヤーの開幕戦での4打席4三振と、続く試合での満塁ホームラン。その“起承転結”のようなデビューを聞いただけでも、まるで一編のドラマのようでした。その後は、ON砲と称された王貞治氏との黄金時代を築き、巨人軍の9連覇をけん引。監督としてもリーグ優勝・日本一に導き、華麗なるプレーと采配、そして飽くなき勝利への執念は、多くのファンを魅了し続けました。
しかし、長嶋さんが真に“偉大”と称される所以は、記録以上に「人柄」にあったと私は思います。私が実際にお会いしたのは、読売巨人軍の宮崎キャンプを訪れたときのことです。私は当時、応援団の幹部として現地に赴いており、光栄にも写真をお願いする機会に恵まれました。すると長嶋さんは、にこやかに「写真はグラウンドの方が良いよ」とおっしゃって、わざわざグラウンドへと案内してくださいました。その一言に、野球という舞台へのこだわり、そしてファンへの真摯なまなざしが込められていたように思います。あの温かなまなざし、屈託のない笑顔、そして一歩一歩の動作に、偉人でありながら“人間・長嶋茂雄”のぬくもりを感じたことは、今でも私の心に深く刻まれています。
野球という言葉は、明治の俳人・正岡子規が、自身の幼名「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」と記したことが語源とされます。その「89(やきゅう)」という言葉にふさわしく、長嶋さんはその生涯を89年で閉じられました。また、「のぼる」の如く、日本の野球を高みへと引き上げ続けました。野球を単なるスポーツではなく、文化として、精神として昇華させた存在、それが長嶋茂雄という人でした。
2013年、長嶋さんが国民栄誉賞を受賞されたとき、私たち家族はその歴史的瞬間を、テレビではなく、会場で直接見届けました。東京ドームのスタンドから眺めたあの光景──スタンド中が総立ちになり、万雷の拍手が響き渡る中、柔和な表情で手を振る長嶋さんの姿に、私も、家族も、涙をこらえることができませんでした。「国民栄誉賞」とは、まさにこの方のためにある言葉だ、と心から思いました。スポーツの域を超え、国民の記憶に深く刻まれた存在に、賞賛の言葉が追いつかないほどでした。
また、長嶋さんが2004年アテネオリンピックの野球日本代表監督に就任された際、私の叔母がその下見の際に通訳としてご案内するご縁を得ました。ギリシャの地で、長嶋さんは古代競技への敬意を示しつつも、日本野球の誇りと未来を静かに語っていたそうです。叔母はその時、彼の人間的な魅力に心を打たれ、会話を交わすうちにすっかり打ち解けたと聞いています。本番でも通訳として帯同する予定でしたが、長嶋さんが脳梗塞で倒れられたことで、その夢は惜しくも叶わぬままとなりました。叔母はその後も、「あの人の言葉には、不思議なあたたかさがあった」と、何度も語っておりました。
病と闘いながらも、リハビリに励み、何度もグラウンドに立ち戻る姿勢には、心からの敬意を抱かずにはいられませんでした。「野球の神様に生かされている」と語った長嶋さんの言葉は、まさにその通りだったのでしょう。生涯を通じて、野球という名の舞台の上に立ち続けた89年の人生──それは一つの「完全試合」でもあり、日本人の記憶に永遠に残る一冊の名著のようでもありました。
長嶋さん──野球を愛し、野球に愛され、日本を愛し、日本中からも愛され続けたその姿に、改めて深い感謝と敬意を捧げます。
どうか、幽界の世界でも、大好きなユニフォームに袖を通し、晴れやかなグラウンドでバットを握り、天の声援を受けながら、いつまでもプレーを続けてください。
あなたの人生に、そして私たちに与えてくれた数々の奇跡に、心より、ありがとうを申し上げます。
合掌。
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